■ horizon 2



少しうつらうつらとしたが、深い眠りにつく事は出来なかった。何度か目を閉じたが結局目がさえてしまい、隣で大の字になって眠るゾロを起こさぬよう静かに身支度を調えたあと、そっと甲板に出る。もっとも、多少音がしたところでこの男が目を覚ますとも思えなかったが。
どうせすぐに夜明けだ。煙草に火を付けながら手すりにもたれ、漆黒の海に目を向ける。今宵は新月。薄い雲が広がる空には星がちらほらと瞬くのみで、海面は黒い蛇がうねっているようだ。水平線がどこにあるかも分からない。

ふいに、一編の詩を思い出し、同時にバラティエにいたときに出会った、線の細い少女の事が思い出された。
サンジが十になるかならないかの頃、何度か店に来てくれた子だ。自分より小さいくせに立派に働いていたサンジに驚き、弟のように可愛がってくれた。
両親に連れられて来る彼女は日光に弱く、いつもつばの広い帽子をかぶっていた。店内に入り席に着くところで帽子と手袋を外すのだが、その時あらわになる亜麻色の髪とおそろいの色をした柔らかな瞳がサンジは好きだった。食事に制限があるため、彼女のためだけに作られたメニューを美味しい美味しいと言いながら、その体の細さに似合わず全て平らげ、デザートのあとは紅茶とともに本を読むのが常だった。
最初に話した時に、ここは海の上だから本がなかなか手に入らないと言うと、次から来る時は必ずこども向けの本を持ってきてくれた。それらは冒険小説であったり、騎士と姫君のラブロマンスであったり、いずれにせよどれもサンジを楽しませた。ガキは早く寝ろ、ベッドで本を読むと目が悪くなる、等とジジィに叱られながら、夢中になって何度も読んだ。彼女は一ヶ月に一回の頻度で訪れ、来る度にサンジは本の感想をとうとうと話した。自分はその本のどこに感動し、好きな登場人物は誰で、嫌いなのは誰、大笑いした場面に、思わず泣いてしまった場面もこっそりと打ち明けた。大好きな本の話をする時が、彼女の顔が一番輝く時だったからだ。

ある日バラティエに訪れた彼女はいつも通りに食事をしたあと、今日でお別れなの、とサンジに言った。
「サウスブルーに行くの。
 わたし、この病気のせいで二十歳まで生きられないと言われてたんだけど…
 サウスブルーにとっても名医のお医者様がいて、私と同じ病気の人を治したんですって。
 治るかどうか分からないけど、わたし行ってみるわ。
 残り3年をただじっと待って過ごすよりも、
 やれるだけの事をやって過ごしたいの」
そう続けた彼女の瞳は、今まで見たどんなときよりも輝いていた。薄い色をした瞳の奥に、希望という名の炎が確かに宿っていた。
そして、もう本を渡せないのが残念だわ、と言って、サンジに最後の本をくれた。
「詩集だから、サンジにはまだちょっと難しいかも知れないけど。
 わたしの一番好きな詩集なの。読んでみてね」
バラティエでは馴染みの客が来なくなる事など日常茶飯事だった。でも、彼女のようにきちんとお別れを言って旅立つ客はサンジにとって初めてで、そのことは幼いサンジにも漠然と別れというものの本質を理解させた。多分、彼女とはもう二度と会えない。目に涙をためた俺が本を抱きしめながら頷くと、彼女は微笑んで俺の頬にキスをくれた。
バラティエから去っていく彼女の背中はまっすぐとしていてとても美しかったのを覚えている。

その詩集は数百編にも及ぶ詩が収められているもので、当時のサンジにとって、簡単なものもあったが多くは難解だった。頑張って挑戦してみたがよく分からず、しばらく書棚の飾りになってしまった。
だが、何年か経ったあとふと思い出して取り出すと、印象的な詩がいくつもあった。しかしながら、数百編の詩をいちどきに読む訳にもいかず、思い出したように手にとっては適当なページをめくり、琴線に触れる詩を探す、というのがその本の味わい方になった。
あの本はバラティエを出る時に置いてきてしまった。久しぶりに思い出したが、持ってくれば良かったな、と今更ながらに思う。

「かの女の白い腕が
 私の地平線のすべてでした、か」

妙に印象的で、見た瞬間に覚えてしまった詩だ。
なんて盲目的な恋だろう。
東の空がだいぶ白んできた。もうすぐ夜が明ける。いや、もう明けたのかもしれない。
フィルター近くまで火の進んだ煙草を指ではじき、海に捨てる。波間にジュッと水分の蒸発する音が聞こえると同時に、背後で扉の開く音がした。ゾロだ。
「何だ、もう起きたのかよ。眠れないなんて遠足当日のこどもか?」
うるせぇな、と答えながらゾロがこちらに歩いてくる。その間にも空は刻々と白んで、あとは日の出を待つばかりだ。朝焼けに映えた雲は赤く染まり、影の群青と相まって空とのコントラストを強めていく。
「なんだって?」
同じく手すりまで来て横に立ったゾロが問いかけてきた。
「あ?」
質問の意味が分からず、新たな煙草を取り出して火を付けた。
「さっきなんか言ってただろ」
「あぁ…。いーや?お前が俺の地平線でなくて良かったな、と思ってよ」
「なんだそりゃ」
疑問の声を上げるゾロを相手にせず、細く長い紫煙を吐き出した。この話はこれで打ち切り、という意味だ。左頬にゾロの視線を感じたが、あくまで顔は海に向けていた。

それまで薄ぼんやりとしていた空に明らかに光が射す。それを映して海面が輝き、曖昧だった空と海の境目が現れた。
見渡す限り続く、まっすぐな線。

そうだゾロ。
俺はお前に捕まる前に、とっくの昔に、この水平線に捕らわれていたんだ。
その腕のどこかに、幻の海を抱く、美しくも残酷な──。
この海がある限り、この腕に包まれている限り。
俺は
お前なんかいなくても。


「うぉ!」
手前ぇ何すんだいきなり!
いつの間に背後に回ったのか、首を後ろから乱暴に引き寄せられた。
「────る」
「あ?」
聞き取れなくて胡乱な声を上げると、ゾロは首に回した腕をますます絞めてきた。腰にも腕が回されて、後ろから羽交い締めにされたも同然だ。体が密着し身動きがとれない。
「なに余計な事考えてる、って言ってんだ」
触れた肌が熱い。
「俺は帰ってくるぞ」
俺の体が硬くなると同時に、奴が更に力を込めて俺を抱きしめる。
肌を合わせてから既に数時間。
夜風にもあたり完全に冷えていた俺の背中に、ゾロの熱が移る。
背中が、首が、腰が、ゾロの触れるところが焼けそうに熱い。
「時間かかるかもしれねぇが、帰ってくる」
耳元で響く声に熱を吹き込まれる。
あぁ、胸まで焼かれた。全身が発火しそうだ。

「あいつに勝って、世界一になって。俺は帰ってくるから。お前は黙って待ってろ」

ハハ。
やっぱりコイツは酷い奴だ。
それがどれほど辛いか、知ってて言いやがる。
俺は目を閉じて、体が歓喜で震えるのを必死で押さえた。

「バァカ」
唇から煙草を外しながら奴の体に向き直り、俺は自分からあいつの首に腕を回した。
俺は、いつも通りの生意気な表情を作れているだろうか。
「しょうがねぇからな、待っててやるよ」
「おう、そうしとけ」
いつもなら喧嘩になるセリフなのに、どちらもそうしなかった。
そのかわりに、ただ見つめあってキスをした。

俺の腕が、コイツの地平線になればいいと思いながら。

■ end.
2005/06/08





Hに初挑戦してみました。恥ずかしい。なのに全然エロくない…。玉砕。
詩は「月下の一群」堀口大學より。
いい詩が沢山です。妄想かき立ててくれる詩も沢山です。

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